グランプリで日本人が活躍することに驚きを感じなくなってもうどれくらいの年月が経ったのだろう…
思えば、”空前のロードレース・ブーム”と言われた1980年代の半ばでさえ、世界の舞台で戦う日本人はほんの数人だった
サイドカーや125ccクラスで、なんとか表彰台争いに絡もうというポジションで奮闘する彼らの姿に、350ccクラスのタイトルを獲得しながらも、大挙してやってきたアメリカン・ライダーに太刀打ちできない片山敬済の苦悩する姿に、そして全日本で圧倒的な強さを見せ意気揚々とヨーロッパへ乗り込んだ藤原儀彦が周回遅れにされるシーンに、”世界の壁”と”日本人の限界”をひしひしと感じたものだった
”日本製のマシンは抜群に速いが、日本人ライダーは…”
そんな評価を一変させたのは上田昇、坂田和人、若井伸之といった125ccのライダー達だった
いわゆる”ワークスの庇護”の下にいなかった彼らは、日本人ライダーが本来持っていた技術の他に、ヨーロッパのライダー達が持っているハングリーさをも兼ね備えていた
当てられたら当て返し、悪質なブロックをしたライダーに対しては、セッション終了後にそのピットまで怒鳴り込みに行った
さらに英語とイタリア語を独学でマスターし、パドックでの市民権を得た彼らはやがて海外のチームを渡り歩くようになり、その後の日本人ライダーの活躍の場を大いに広げた
250ccには原田哲也がいた
かつて清水雅広が、本間利彦が、さらにはヨーロッパの歴戦の勇士達が束になってもかなわなかったジョン・コシンスキーを、海外デビュー戦であっさりと叩きのめすと、フル参戦1年目で激戦の250ccクラスを制し、日本人ライダーの速さを存分に世界にアピールしてみせた”本当の天才”…
そして最高峰クラス…
遂に表彰台に上ることのなかった平・八代の時代、勝利まであと一歩に迫った伊藤真一を経て、ノリックはついにメーンポールに日の丸を揚げてみせた
その後も岡田忠之が、宇川徹が、玉田誠が何度も君が代を聞かせてくれた
そして青木琢磨や加藤大治郎が夢半ばで去っていったグランプリで、誰もが『次は彼の番』だと信じていた…
ノービスの時代から”原田より凄いヤツがいる”と言われていた男
グリッドを埋めるだけだったカワサキのマシンを、トップを争えるマシンに仕上げた男
今シーズン、Motogp唯一の日本人として孤高の走りをみせてきた中野真矢は、このマレーシアの地で11年に及ぶグランプリ生活の全てを路面に叩き付けるような激しい走りを見せた
それは、”チーム関係者に対するアピール”という据わりの良いフレーズなどでは到底言い表すことのできないほどの、凄まじい喜怒哀楽をはらんだものだった
『高橋裕紀よ、そして世界を目指す日本人ライダーよ、この中野真矢を越えられるのか?』
猛獣のように何度もケーシー・ストーナーに襲いかかり、トップを快走するバレンティーノ・ロッシから国際映像の主役を奪った中野のヘルメットの中からは、そんな魂のメッセージが伝わってくるようだった
MotoGPライダーとしての集大成を見せるべく臨んだ今シーズンを、日の丸をあしらったヘルメットで戦った中野真矢…
この灼熱のセパンで、次戦のバレンシアで、彼が放つ強烈なメッセージは、きっと次の世代に受け継がれていくだろう
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